亥鼻地区の記念碑等
荻生, 長尾両校長の記念像
この塔は,医学部旧正門を入って正面の木立の中に立っている。向って右側面に長尾精一先生像が,左側面に荻生録造先生像のレリーフがはめ込まれている。
正面に医学部創立85周年(昭和35年)の記として,次の一文が刻まれている。
長尾精一君像
君は明治13年6月 初めて公立千葉病院長として来任し 同院が県立千葉医学校第一高等中学校医学部 第一高等学校医学部 千葉医学専門学校と逐次昇進するに随うて常にその長となり 明治35年7月病没する迠本学部前身の発展の為に挺身した
荻生録造君像
君は明治17年7月県立千葉医学校教諭として来任し 同35年11月長尾精一の跡を襲うて千葉医学専門学校長となり 大正3年12月病没する迠本校の拡充進展に努めた
明治中 両君の功を称え徳を頌して銅像が建てられたが恨むらくは戦禍を蒙った 今次千葉大学医学部創立85周年を迎えるに當り 舊基に就いて遺影を刻して聊か復元の意を表す
ヒポクラテス胸像
この胸像は,医学系総合研究棟(治療学研究棟)4階の南側玄関を入った正面に置かれており,嶋田宗之先生(昭和9年卒業)から寄贈された。
医学の祖,ヒポクラテス(Hippocrates,BC460 ~ 377)を医の倫理の原点として,ことに若い医学徒達に思い起こして欲しいとの嶋田先生のお心に由来する。昭和61年(1986年)1月27日,先生ご夫妻他多数のご列席のもとに除幕式が挙行された。
正面のプレートには次のように記されている。
この胸像はフィレンツェのウフィツィ美術館所蔵のものの複製(1980年)を本学昭和9年卒の嶋田宗之先生が寄贈されたものである。
1985年12月千葉大学医学部
辛亥革命記念碑
この記念碑(高さ228cm巾82cm厚さ14cm)は,大正元年(1912年)11月9日に建立され,その後場所を変え旧医学部本館前庭の一隅に建てられている。
当時の中国は,外からは外国の侵略に晒され,内にあっては清朝末期の堕落した王朝政治が行詰り,内憂外患革命の気運漸く昂まるという状況にあった。その頃,わが千葉医学専門学校には,39名の中国留学生が滞留して居り,祖国の難を憂え,同士相集いて救国の志に燃え,戦陣に駆け参ずることを誓いあったのである。この快挙を契機に他の大学にもその情報は波及し,多勢の中国留学生の決起を促すことになったというのである。
碑文の中の諸先生とは,時の校長荻生録造先生であり,学生の要請を受けて文部省,外務省に要望し,戦陣より帰還の後必ず復学せしむるとの認可を取り付け,戦陣へ送り出すことを決したという。
1911年秋から翌12年春にかけて孫文先生を盟主として熾烈な戦闘の末,同年3月9日孫文先生を臨時大統領として中華民国樹立を果たしたのである。戦時に馳せ参じた留学生も同年4月頃には帰学することとなり,全学挙げての支援に感謝し,恩義に対する礼節を示すために半歳を費やして記念碑を建立したのである。
碑文の全容
王綱紐を解きてより(清朝宣統皇帝の退位)共和政治が始めて打ち建てられ,中華民国が出来たが,国歩艱難,戦争は絶えず。伏屍は川を塞ぎ,山野を血ぬらせている。この人民の悲しみは誰が護るのであろうか。三軍を励ますのは赤十字の旗,生死肉骨難を救い危機を助ける。諸先生も学友達も極めて公平で,平和な世の中を願っている。世の中に仁寿を致し,人道を広め,徳意が盛んである。樹を植え,碑を建てて万年永く讃える。(土井申一訳)
七天王塚
医大の牛頭天王碑
千葉市を流れる都川は,下総台地の西北を回って千葉港に注ぐ。この大地の鼻先が亥鼻台である。亥鼻の南に続く台地が矢作台であり,西のそれが葛城台である。千葉医大の構地は広く,亥鼻と矢作の両台に跨がるが,これら両台のうち亥鼻台に俗にいう千葉の七天王塚がある。七天王塚のうち五塚は千葉医大の旧附属病院の南側に散在し,残る二塚は旧東金街道が北に向って,いわゆる大学坂となって終る頃,その西側にある。
千葉の里人は,これら七塚を牛頭天王の七塚と呼び,昔から畏敬の念を持って守ってきた。この七天王塚は「図」に示した如く,一号から七号までの番号がつけられている。
これら七塚の大きさは,いずれも10mの円ないし類円形にみえた。また,その高さは第一および第二号が1.5mほどの小円墳を思わせ,残りの五塚すなわち医大の構内のものは,高さ0.5m程度の盤状であった。
塚のいずれにも数本の大樹をみる。樹種には椨が多く,その中でも最大は三号塚のそれで,胸高幹囲りが約6m,推定の樹齢は150年であった。また昭和54年の晩秋に枯れた七号塚の松の幹囲りは約5m,推定の樹齢は約200年であった。
多くの老樹または神木に小枝一本払い落しても「祟る」との民俗学的伝承がある。
七天王塚の老木の根元には高さ50cm足らずの数基の石碑がひっそりと並んでいた。風化のため碑面を読むことができないものも若干あったが,石碑の形,大きさを参考として碑文の大部分を読み取ることができた。石碑は8種類。そのうち造営年月が最も古く,かつ,いずれの塚にも見ることができたものは1種類あった。それは正面の題銘が「堀内牛頭天王」。脇の施主銘が「大治元年一日丙午六月朔 平常重代」。造営銘が「安永癸巳造営」と刻してあった。
千葉市は昭和35年3月に牛頭天王七塚を千葉市指定史跡と認定し,昭和49年3月の日付で次の文を各塚に掲げた。
千葉大学附属病院裏に散在するこの七つの古塚は「七天王塚」と呼ばれ,疫病,災害を除く神として崇められている。塚の上の石碑に刻まれる「牛頭天王」は千学集に記される千葉の守護神は曽場鷹大明神,堀内牛頭天王云々に相当てられる。猪鼻城の大手口に七つの塚を千葉氏の崇敬する北斗七星の形に配置し,牛頭天王を祀り一族の繁栄を祈ったものであろう。また一説に千葉氏の七人の兄弟を葬った墓とか平将門の「七騎武者の墓」とも伝えられるが定かでない。
(千葉市教育委員会 昭和49年3月)
貨幣石大理石
千葉大学医学部(旧病院)は昭和6年から12年に亘りあしかけ7ケ年の歳月を費やして建造され,建設当時はドイツ医学の粋を集め,東洋一の病院と称せられたといわれている(千葉大学30周年史:1980)。
旧医学部本館(現在は閉鎖)の正面玄関から入った小広場,1階から4階に昇る各階段,1階の階段の裏側にある別の小広場,その周辺の柱などを肌色の大理石で化粧している。
建造当時,国が多大な関心と期待と願望とをこめて,当時としては容易に入手困難であったと思われる貨幣石大理石をイタリアから輸入し,多量に用いている。現在,調べた範囲内において古第三紀の標準化石たる貨幣石を含む大理石が日本国内において,医学部の建物を除いた以外の場所に,これ程多量に用いられている所は未だ明らかになっていない。鑑定に役立った貨幣石化石に基づくと,医学部の貨幣石大理石の地質時代は始新世中期の末(ルテシアン階後期)~後期の初め(プリアボニン階初期)と考えられ,それは約4600万年前~ 3900万年前の生成のものであった。
この貨幣石大理石は,パリの古い建造物に使用されている貨幣石大理石と,またエジプトのスフィンクスの頭部やギゼーのピラミッドの化粧板の貨幣石大理石やカフラー王のピラミッドの最上部に残る化粧板の貨幣石大理石と,大局的にみると,ほとんど同一時代のものであり,医学部のものはイタリア産と言い伝えられていることから,イタリア,エジプト,ギリシャなどに亘って広がっていた古地中海(テチス海)に形成された一連の貨幣石大理石の一端であるといえる。
旧医学部本館の建物は石材という一側面の観点にたてば,建築史上,重要な文化的遺産物としての価値が充分に内在するばかりでなく,文化的遺産物の背後にひそむ,はかり知れない歴史的重みのあることをひしひしと感ずる次第である。